其の二十
御救小屋(おすくいごや)
現代で言うところの仮説住宅・避難所である。
江戸で火災にあって、避難所がない者のために御救い所というものを作ってそこに収容する。
御救い小屋は鎌倉河岸、数寄屋河岸、土橋河岸、板屋町河岸、両国広小路と大抵は河岸沿いに建てられた。
いずれも丸太によしず張りという粗末なもので、屋根は苫葺き、床には大竹の簀子を張り、その上に荒むしろを敷いてある。
小屋の大きさは四間に15間ないし20間くらい、周りを薦張りにして囲っている。
1小屋の収容人数はおよそ200人くらいである。
小屋の設営費用はすべて吉原に負担を命じ、いろいろな雑役や炊き出しの手伝いなどは深川、湯島などの岡場所、または夜鷹などに課していた。
御救米の炊き出しは1人前3合ずつで、梅干し3つと味噌を少し半紙に包んで添えてある。
これは生まれたばかりの赤ちゃんでも貰うことができた。
さらに方々からの寄付もあった。
多くは1人に対して半紙1帖、手拭い1と筋、お金は100文から300文くらい。
御救い小屋に入っている人たちの出入りは大変厳重に取り締まっているが、それぞれの稼業に出ていくことは許されている。
しかしいつの世にもケシカラン者はいて、恩に慣れ、慈悲に甘えて、果てには必要以上に権利を主張して、ふしだらな事をしたり、風俗を乱したりして、その取締りにも困ったと言われている。