其の十九
火事場
火事場の取り締まりは非常にやかましい。
当該の区域内は非常線を張って、火元の親類縁者のほかは立ち入ることを許さない。
火事場泥棒を働こうとしてあれこれ嘘を言って、非常線をくぐろうとする者もいるので、一々それを取り調べて怪しい者はみんな取り押さえていた。
また荷物を運び出すには大八、地車、長持車などの車類はすべて禁じられているので、大抵の者は荷物を手かきか背負って出していた。
これは混雑の中で怪我人などがでる心配があったからで、切れ物の鞘をはずすことも絶対に許されなかった。
大名の奥方、侍女などが他の屋敷に立ち退くときの装束は、羅紗のしころの付いた烏帽子をかぶり、着物の上に上っ張りを着て足袋、草履を穿き、小刀を1本さし、羅紗の鞘入りの長刀を各自持っていた。
大奥の女中達の立ち退きも同じであるが、明暦の大火の時に本丸へ火が掛り、大奥の女中達は出口を失って非常に狼狽したが、あの知恵伊豆と言われた松平伊豆守信綱が早速の機転で大広間の畳を一枚ずつ上げ、それを裏返しにして道をつけたと言われている。
江戸時代に火事が多かったということは、家屋自体が木と紙で出来ていることはもとより、放火などもたくさんあったが、所謂独り者が多かったせいでもある。
火の用心!
独り者
1人で裏店に世帯を持っていたために、外出をする時にも火鉢の火などをそのままにしておくので、それが原因で火事を起こすことが度々あったという。
奉行所からの達しで、独り者が外出するときは、大家に鍵を預けさせ、大家はその留守中は2、3度見廻ることになっていた。
明暦(めいれき)の大火
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。江戸の3大火の筆頭としても挙げられる。