其の一
うまいお鮨屋さんが八丁堀にある。
名前を司という。
もうずいぶん昔に親しい先輩に連れて行って貰ったのが始まりで、あれから30年近く通っている。
親父さんと女将さん、息子さんの3人だけの小さなお店だった。
なんでも美味しいが、特に白身は絶品で、夕方に電話を入れて行こうとすると「今日はもう良いネタがないから、来ないほうがいいですよ」と断られる。
それくらいネタにはこだわっている。平成25年にその親父さんが亡くなり、若旦那の息子さんが2代目として立派にやっている。
今回、その司さんがホームページをリニューアルされると言うので、このさいそれに便乗して八丁堀にまつわる話をあれこれしていきたい。
八丁堀と聞くと多くの人は江戸時代の同心、与力に思いを馳せるのではないだろうか。
テレビや映画でも八丁堀を舞台に同心たちが所狭しと大活躍をしている。現代劇なら刑事ものだが、江戸時代なら時代劇の同心ものである。
八丁堀の与力・同心組屋敷の場所は、今の 中央区八丁堀1~2丁目、日本橋茅場町1~3丁目の一帯らしい。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町であった。
1635年(寛永12年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転。そこに与力・同心組屋敷の町が成立した。
余談になるが、この1635年は3代将軍家光のときで、この年は武家諸法度を改正した参勤交代を制度化したり、海外渡航禁止、帰国禁止の鎖国令が出された年でもある。
そうして八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町となった。
与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていた。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10騎(与力は馬上が許されたので馬も込みで単位は「騎」)、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50騎、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務。
与力は知行200石、屋敷は300坪程度、同心は30俵2人扶持で、100坪ほどの屋敷地であった。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍していくこととなる。