其の三
与力に続いて同心の話。
どういう理由からか、御家人でありながら「お抱え」という名義になっていて、年季者のような取扱いを受けていた。
毎年大晦日の夜、上役の与力の役宅へ呼ばれて「長年(ちょうねん)申附くる事」と言われて来年も引き続き務めることを言い渡される。
したがって何時やめさせられても致し方は無いことになっていた。
他に対しては大きな勢力を持っていたが、その実、地位は卑しかったので、町奉行所の御白洲へ出るような役の者でも、床の上にはいないで砂利の上にいる。
大岡越前や鬼平犯科帳の御白洲のシーンを思い出していただきたい。
これを俗に突く這い同心と言っていた。与力の下についていて、同じく八丁堀に住んでいる。取り高は30俵2人扶持。やはり他に収入がある。
与力が武家を御出入り屋敷のようにしていたのに対して、同心は町屋の大きい家に出入りしていて、盆暮れには相当のものを貰っていた。
勿論、これも自分1人のものにしておくわけには行かないので、部下の岡っ引きや手先きに分けてやらなければならなかった。
組屋敷は5、60坪から100坪程度でこの地所内を他に貸している者もいる。
それは押し売りや強請(ゆすり)に入られる心配がないので、町人はその地代が少々高いと分かっていても、喜んで借りるのである。これも余得の1つである。
岡っ引きと同じく、いつ科人(とがにん)を追いかけて旅に出ないでもないので、そのために5両から10両くらいの金を懐に入れている。
装(なり)は羽織、着流し、二本差し、裏白の紺足袋、雪駄、十手。これも八丁堀風に着物を長めに着ていた。
御家人
徳川の武家を大きく3つに分けることが出来る。
大名と旗本と御家人である。
1万石以上を大名と言い、9999石以下、御目見得までを旗本と言い、御目見得以下を御家人と言う。
よく旗本は100石以上で、御家人はそれ以下という人がいるが、そうとも言い切れない。
大名と旗本は石高が分かれ目であるが、旗本と御家人とは御目見得が出来るか出来ないかが分かれ目としておく方が無難である。
御目見得とは5節句、すなわち1月7日(人日、じんじつ)、3月3日(上巳、じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)や具足開きなどの式日に登城をした際に将軍家に直々お目見得することを言う。
この御目見得以下の者、御目見得の出来ない者、すなわち御家人などには、大目付が将軍代理として会うことになっていた。
江戸の侍と言えば、10中8、9まではこの御家人。