八丁堀 鮨處 司

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其の十

江戸の町人

江戸の町人、すなわち江戸っ子というものは諸国の移住者によって一種の気風がつくられ、それが段々純化されたもので、元をただせば真の江戸っ子というものはほとんどいない。

徳川家康の入府以前には、江戸の城下にはろくに人家もなく、わずかに漁家、農家が点在しているに過ぎなかった。田舎だった。

当時の村の名には今の一橋の平川村、霞が関付近に桜田村、芝付近に柴村、三田に三田村、大手町あたりに神田郷之崎村、小石川に小石川村、下谷に下谷村などがあったが、いずれも芦や萱原の中にある淋しい村でほとんど人家らしいものもないくらい荒寥たるものであった。


それが天正18年8月朔日(1590年8月1日)、家康の入府と共に市街の開拓に着手し、諸国の商人を勧誘して江戸に移住させた。

しだいに繁華な都会となり、享保年間(吉宗の時代、1716~1735年)には“人がえしの令”を出して帰農をすすめ、市街の拡大を制限するまでに発達した。

“人がえしの令”は年貢アップと都市と農村人口のバランス政策ですね。


移住者のもっとも多い地方は、伊勢、三河、近江、京都、堺などで、各自が自分の生国を屋号として店前の暖簾に「伊勢屋」の三字を染め出したものが半分以上もあったと言われ、「伊勢屋稲荷に犬の糞」(失礼!)という諺まで生まれるに至った。

伊勢屋に次いで多いのが近江屋、三河屋であった。


このように江戸へ諸国の商人が集まってきた理由というのは、単に移住を勧誘し、移住者を優待したというだけでなく、江戸の商売が非常に利益が多かったためである。

そもそも徳川が天下を取ったのは1つには金の力であるが、江戸の金、すなわち徳川で鋳造した金は性目が良かった。

同じ1両の小判でも他国では1両1分くらいに通用するので、その金を他国へ持って行って、両替しただけでも儲かった。


そこで利害の打算に敏な上方者は蟻が甘い物につくように江戸に集中したもので、初めは全く一時的のつもりで少しも土着の意思などはなかったらしい。

それが知らず知らずの間に土着して、江戸っ子という或る気風をつくるようになった。

当時、上方贅六(かみがたぜいろく)などと言って上方者をバカにしていたが、それを悪く言う江戸っ子の祖先の多くは上方出身なのであった。

上方贅六でも近江商人でも伊勢乞食(またまた失礼!)でも、江戸に3代続いていれば立派に江戸っ子になってしまったのである。